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あずまの歴史


平成29年9月
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両国潔俊


あずまの歴史

1.概要
 北は「ホク」「きた」、南は「ナン」「みなみ」、西は「セイ」「にし」という音読みと訓読みを持つ。東には「トウ」という音読み、「ひがし」という訓読みの他に「あずま」というもう一つの訓読みがある。本論は東だけが持つ二つ目の訓読み「あずま」の歴史について論ずるものである。

 

2.古事記・日本書紀における「あずま」の起源
 「あずま」の起源が日本武尊(やまとたけるのみこと)と弟橘媛(おとたちばなひめ)の物語に由来することは古事記、日本書紀により明らかである。「あずま」発祥の前後を含め、その歴史の概要を説明する。

(1)「焼津」の起源
 景行天皇から東国征伐を命じられた日本武尊は相模の国で国造(くにのみやつこ)に騙されて、弟橘媛とともに四方を火の海で囲まれてしまう。日本武尊はその窮地を天叢雲剣(あめのむらくものつるぎ)で草をなぎはらい、脱出する。その出来事からその地を「焼津」(静岡県焼津市)と言うようになり、天叢雲剣を草薙剣(くさなぎのつるぎ)と言うようになった。三種の神器の一つである草薙剣は現在愛知県名古屋市の熱田神宮に祀られている。

(2)弟橘媛の入水
 日本武尊軍は相模の国(現在の神奈川県)から上総の国(現在の千葉県)に船で渡ろうしたが、海が荒れているために進めずにいた。弟橘媛は荒れる海を静めるために海に身を投げる。その時、弟橘媛が詠んだ歌が次の歌である。

 (原文)
 さねさし 相武(さがみ)の小野に 燃ゆる火の
 火中(ホナカ)に立ちて 問ひし君はも

焼津の思い出を歌った歌である。弟橘媛の入水後、海は静まり、日本武尊らは無事に上総の国に辿り着くことができた。

(3)「木更津」の起源※原文出典未確認
 上総の国に着いた日本武尊は次の歌を詠んだと伝わっている。

 君さらず 袖しが浦に 立つ波の

 その面影を 見るぞ悲しき

 この「君さらず」から「木更津」となったと伝わっている。

(4)あずまの起源
 東征からの帰りに足柄で弟橘媛を思い出した日本武尊は、「あづまはや(あぁ、妻よ)」と3回泣き叫んだ。それ以来、東国のことを「あずま」と言うようになった。

 

3.現代に残る弟橘媛
 日本各地には弟橘媛に由来する神社や地名が多く残っている。一部を紹介する。

(1)走水神社
 神奈川県横須賀市走水地区に走水神社がある。日本武尊と弟橘媛の二柱を祀っている神社である。弟橘媛が入水してから数日して海岸に櫛が流れ着いた。村人たちはその櫛を日本武尊と弟橘媛の御所があった御所が崎に社を建て、櫛を納め橘神社としたが、明治18年に御所が崎が軍用地になったため、橘神社は走水神社の境内に移され、明治42年に走水神社に合祀された※1

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 境内には弟橘媛命の顕彰と海の安全と平和を祈る「舵の碑」がある。

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 また境内には東郷平八郎、乃木希典らが発起人となって建てた弟橘媛命の記念碑がある。

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(2)木更津タワー
 千葉県木更津市のJR木更津駅から東を見ると、山の上にひときわ目立つ二本の塔がある。太田山公園(別名:恋の森)にそびえるのそのタワーは、日本武尊と弟橘媛が手を差しのべあう「きみさらずタワー」(高さ28メートル)である※2。神道では神様を数えるとき、一柱、二柱と数える。公式ホームページでは言及してはいないが、この二本の塔は二柱の神様を表していると考えてよい。

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(3)相模女子大学の校歌※3
 相模女子大学(神奈川県相模原市)の校歌1番、2番の歌詞は弟橘媛に関する歌詞となっている。

 (一)
 さねさし 相模の小野の
 学び舎に むつみ合ひつつ
 相まなぶ われらが友よ
 いざ共に 手に手を取りて

 (二)
 いにしへの やまとをみなは
 とこしへの こころの鑑
 あたらしき 時世の道は
 あさゆふの こころの掟

 同大学はHPで次のように述べている。「2番の『いにしえのやまとおみな(古代の日本女性)』とは、このオトタチバナヒメのことを指していると考えてよいでしょう。愛する夫のために犠牲となるというのは、ある意味では古い美徳かもしれませんが、しかし今なお感動的な、ひとりの女性の生き方です。『相模女子大学の歌』は、この古代の女性の自己犠牲の生き方を心に刻みつつ、一方で『新しい時世の道』を『朝夕の心の掟』とせよ、と告げています。」

4.「あずま」か、「あづま」か
「あずま」の漢字には「東」「吾妻」「吾嬬」などがある。古事記では「阿豆麻」と書かれている。平仮名の場合は「妻」という意味に由来しているため、戦前は「あづま」と書くことが一般的であった。戦後、GHQ占領下において国語改革が行われ、「ず」と「づ」は一部の例外を除き、「ず」に統一された。一部の例外とは①同音の連呼によって生じた「づ」(例:つづく)、②二語の連合によって生じた「づ」(例:竹筒/たけづつ、新妻/にいづま)である。また、文部科学省は「この仮名遣いは,個々人の表記にまで及ぼそうとするものではない」としている※4。「あずま」も「あづま」もほとんどの場合、固有名詞として使われているため、どちらの表記も正しいことになる。一方が正しく、もう一方が間違っていると言うことはできない。

 

5.偶然の複合
 あずまに関する固有名詞によって偶然に複合された名称を紹介する。

(1)東あずま駅
東武鉄道亀戸線の駅に「東あずま駅」がある。この駅付近が吾嬬町だったことに由来する※5。駅の近くには弟橘媛を祀る吾嬬神社がある。

(2)相州大和あずま連
 神奈川県大和市に「相州大和あずま連」という阿波踊りの団体がある。団体の名称は「相州」「大和」「あずま連」という三つの語が複合されたものである。それぞれの意味は以下のとおりである。

「相州」・・・神奈川県
「大和」・・・大和市
「あずま連」・・・母体となった商店街の住所が大和東であり、「東」を訓読みにしたもの

 日本武尊(ヤマトタケルノミコト)と弟橘媛(オトタチバナヒメ)の伝説とは全く無関係の団体であるが、偶然にも伝説と関係のある三つの語が複合されたものである。つまり、弟橘媛が入水したのは相模の国(現在の神奈川県)から上総の国(現在の千葉県)に向かう途中のことであり、日本武尊が「あづまはや(あぁ、妻よ)」と叫んだのも相模の国の足柄である。また、日本武尊が東征したのは大和(現在の奈良県)の景行天皇の命であり、東を「あずま」というのも大和から見て東である。余談ではあるが、神奈川県大和市の名称の由来は記紀とは全く関係がなく、下鶴間、上草柳、下草柳、深見が合併して「鶴見村」が誕生したが、合併前の村同士の仲が悪かったため、旧村名と全く関係のない名称を村民が要望し、神奈川県知事が「大和村」と改めたことがその名の由来である。県知事は「村民みな仲良くしなさい」という意味で命名したものと推測できる。
 徳島には「阿波の阿の字は阿呆の阿の字」という言葉がある。古事記では「あずま」を「阿豆麻」と書く。したがって、「阿波の阿の字はあずまの阿の字」とも言える。

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6.最後に
 本論では「あずま」の歴史について述べた。「あずま」は約2000年前の出来事が起源となって使用されるようになった言葉であるが、地名、人名、組織名称には「あずま」や「あづま」が今もなお使用されている。一方で、「ナウい」や「チョベリグー」などは多くの人が一斉に使い始めた言葉ではあるが、一瞬にして使われなくなった言葉でもある。「あずま」が約2000年の長きにわたり使用され続けているのは、その言葉に不変的な価値があることに他ならない。さらに「あずま」は文字が使われる前から、口伝によって伝えられた言葉である。我々の祖先が約2000年のあいだ大切にしてきた言葉を2000年後の後世が使っているかどうかは、その時々の言葉の使用者にかかっている。


※1 走水神社公式HP http://www12.plala.or.jp/hasirimizujinjya/yuisyo/index.html
※2 木更津市公式HP http://www.city.kisarazu.lg.jp/13,0,31,207.html
※3 相模女子大学公式HP http://www.sagami-wu.ac.jp/guideline/outline/song/
※4 文部科学省現代仮名遣い 
http://www.mext.go.jp/b_menu/hakusho/nc/k19860701001/k19860701001.html
※5 墨田区HP「町区域の新設等(昭和39年6月29日 都告示第621号)」
https://www.city.sumida.lg.jp/reiki_int/reiki_honbun/g108RG00000238.html

 

2017.11.19 Sunday