
~人物注釈~
石母田頼在(いしもたよりあり) 宮崎領主石母田家八代。長門、素水を号す。若老兼評定奉行(2)。芦東山の石母田家預けの際の石母田家当主。
室鳩巣(むろきゅうそう1658~1734) 江戸幕府の儒学者。芦東山の師。
斎藤竹堂(さいとうちくどう1815~1852) 儒学者。昌平黌で学ぶ。「蘆東山傳(芦東山伝)」の著者(3)。
林子平(はやししへい1738~1793) 海国兵談の著者。芦東山を儒家の博学として推奨。(3)
工藤平助(くどうへいすけ1734~1801) 海国兵談序文の著者。只野真葛の父。
只野真葛(ただのまくず1763~1825) 文学者。中新田領主只野行義の妻。2012年大学入試センター試験国語において、只野真葛の著書「真葛がはら」が古文の問題として出題された。2016年大学入試センター試験日本史において、只野真葛が林子平や滝沢馬琴と関連付けられて出題された。
只野行義(ただのつらよし) 中新田領主只野家八代(1)。
芦東山(あしとうざん1696~1776) 無刑録の著者。薬莱山13号参照。
芦さく(あしさく) 芦東山の娘。
畑中太仲(はたなかたちゅう) 仙台藩士。儒学者。芦さくと結婚するも、さくは若くして逝去する。その後、板橋千代と結婚し、清が生まれる。清の孫が岡千仞である。
伊藤博文(いとうひろぶみ1841~1909) 初代内閣総理大臣。仙台市子平町龍雲院の林子平墓碑横に林子平の顕彰碑を建立した。
太田有孚(おおたゆうふ) 漢学者。辛未館の漢学責任者。横尾玄鑑筆塚(現在、中新田交流センター前)を建立した。
ニコライ(1836~1912) ロシア人。日本ハリストス正教会の創建者。開港後間もない箱館で布教活動を始める。目の治療でロシア領事館内の教会に来ていた新島襄と交流を持つ。
沢辺琢磨(さわべたくま1834~1913) 日本ハリストス正教会司祭。薬莱山13号参照。
水本成美(みずもとなるみ1831~1884) 明治政府元老院で芦東山の無刑録公費出版に関与(4)。岡千仞とは昌平黌同期(5)。
岡千仞(おかせんじん1833~1914) 漢学者。畑中太仲の子孫。太田有孚の後輩。大坂に雙松岡塾を開く。弟子に清川八郎、本間精一郎、山東直砥がいる。榎本武揚、福沢諭吉、福島安正と交流を持つ(5)。横尾東作の墓の文字は岡千仞の筆による(6)。
横尾玄鑑(よこおげんかん) 横尾東作の父。下新田村で医業の傍ら、寺子屋を開く。中新田交流センタ~前に玄鑑の筆塚がある。墓は宮城県遠田郡美里町曹洞宗鶴翁山玄松院にある。
押川方義(おしかわまさよし1850~1928) 東北学院創始者。薬莱山13号参照。
寺沢茂吉(てらさわもきち) 沢辺琢磨から洗礼を受け、中新田ハリストス教会を建設。
陸奥宗光(むつむねみつ1844~1897) 坂本龍馬の海援隊に所属。外務大臣。明治政府元老院で芦東山の無刑録公費出版に関与(3)。山東直砥の友人。横尾東作と交流がある。陸奥宗光は西南戦争において西郷軍に関わった容疑で仙台の刑務所に収監されていた。現在の仙台市片平市民センターがその刑務所跡地である。
大槻玄沢(おおつきげんたく1757~1827) 大槻三賢人の一人。前野良沢・杉田玄白の弟子。芦東山の墓参りをしている(3)。
新島襄(にいじまじょう1843~1890) 同志社英学校(のちの同志社大学)の初代校長。東華学校初代校長。箱館で目の治療のためロシア領事館内の教会に通い、ニコライと出会う。その後、箱館からアメリカ船に乗り込み、縁もゆかりもないアメリカへ渡る。薬莱山13号参照。
清河八郎(きよかわはちろう1830~1863) 京都で浪士組を結成。浪士組はやがて新選組となる。大坂の雙松岡塾で岡千仞に学ぶ(5)。山形県庄内町に清河神社、清河八郎記念館がある。
本間精一郎(ほんませいいちろう1834~1862) 大坂の雙松岡塾で岡千仞に学ぶ(5)。NHK大河ドラマ「龍馬伝」では岡田以蔵に暗殺されたことになっている。
横尾東作(よこおとうさく1839~1903) 下新田村出身の教育者、探検家。北門社新塾では柴四郎、福島安正に、辛未館では斎藤秀三郎に英語を教えている。薬莱山13号参照。
山東直砥(さんとうなおと1840~1904) 教育者、実業家。陸奥宗光の親友。大坂の雙松岡塾で岡千仞に学ぶ(5)。北門社新塾を運営。自民党国会議員山東昭子の曽祖父。
大槻磐渓(おおつきばんけい1801~1878) 大槻三賢人の一人。仙台藩校養賢堂学頭。芦東山の墓参りをしている(3)。額兵隊の名付け親。
福澤諭吉(ふくざわゆきち1835~1901) 慶應義塾の創設者。勝海舟とともに渡米。横尾東作は福澤諭吉の私塾に学んでいる。岡千仞と交流(5)。
星恂太郎(ほしじゅんたろう1840~1876) 額兵隊隊長。反政府活動では横尾東作とともに新潟に赴いている(6)。仙台東照宮宮司の息子であったため、幕府に対する忠誠心に厚く、250名の隊士を率いて、脱藩して箱館戦争に参戦した。脱藩する際、大和町宮床の覚照寺に身を潜め、石巻に停泊していた榎本脱走艦隊の船に乗り込んだ。墓は仙台東照宮近くの清浄光院にある。
榎本武揚(えのもとたけあき1836~1908) 江戸幕府幕臣。蝦夷共和国総裁として箱館戦争で戦う。明治政府要職に就き、横尾東作の南洋探検を支援。岡千仞と交流がある(5)。
山東昭子(さんとうあきこ1942~) 自由民主党所属の参議院議員。山東直砥のひ孫。
吉野作造(よしのさくぞう1878~1933) 東京帝国大学教授。現在の大崎市古川で生まれる。古川で英語塾を開いていた斎藤秀三郎に英語を教わるが、秀三郎の短気に恐れをなし、一日で退塾。宮城県尋常中学校(現在の仙台一高)で校長大槻文彦に学ぶ。大崎市の吉野作造記念館では毎年、吉野作造検定試験(初級、中級、上級)が開催されている。
大槻文彦(おおつきふみひこ1847~1928) 大槻三賢人の一人。教育者、国語学者。日本初の近代的国語辞典「言海」を編纂。横尾東作の世話を受けてアメリカ人から英語を学ぶ。横尾東作翁伝の序文の著者(6)。芦東山の墓参りをしている(3)。薬莱山13号参照。
富田鐵之助(とみたてつのすけ1835~1916) 仙台藩士。日本銀行初代副総裁・第二代総裁。勝海舟の弟子。勝海舟の息子の付き添いで渡米。東華学校設立発起人代表。横尾東作は富田鐵之助邸で逝去。薬莱山13号参照。
武藤勝作(むとうしょうさく) 額兵隊頭取。宮崎町史に次のような記載がある。「藩士武藤勝作は上小路出身、十九歳の時仙台藩より長崎に派遣され兵学を学ぶ。帰国後箱館五稜郭の戦、松前木古内の激戦に参加し、銃丸に中り戦死した。明治戊辰史には、『官軍は厚沙市木古内へ、千五百余兵を差し向く。隊長星恂太郎一小隊を率い、稲落山の胸壁にのぼりて、村の西方を防がしめ、堀口武泰をして村の東裏を防がしむ。而して中川辰五郎の砲兵隊は小路の中央にあり、旋条砲の霰弾を発射する。然れども官軍は千二百余、我は二百余に過ぎざれば、漸く敗退を現し来る。額兵隊頭取武藤清秀(勝作)大いに怒り、兵の多少こそあれ、敵鬼人にあらざれば撃って破られざることあらんや。我に続けと叫びつつ雨霰の如き弾丸を事ともせず、自ら正面に現われ小銃をとって敵七、八人を撃倒せしも、遂に乱軍間に戦死す。嚮導役島津利蔵は死骸を肩に引っかけて退却せんとしたるも、敵に追われたため、武藤の首を切りてこれを携えて退却す』」(2)。墓は宮崎洞雲寺。
土方歳三(ひじかたとしぞう1835~1869) 新選組副長。箱館戦争で戦死。
土井晩翠(どいばんすい1871~1952) 第二高等学校(現在の東北大学)教授。荒城の月の作詞者。斎藤秀三郎に英語を学び、東京帝国大学英文科に入学する。
斎藤秀三郎(さいとうひでさぶろう1866~1929) 英語学者。辛未館で横尾東作から英語を学ぶ。吉野作造(一日のみ)や土井晩翠に英語を教える。英和中辞典を編纂。
柴四郎(しばしろう1853~1922) 政治家、小説家、軍人。北門社新塾で横尾東作に学ぶ。柴五郎の兄。
福島安正(ふくしまやすまさ1852~1919) 陸軍大将。北門社新塾で横尾東作に学ぶ。岡千仭と交流(5)。
勝海舟(かつかいしゅう1823~1899) 江戸幕府幕臣。富田鐵之助、坂本龍馬の師。江戸城無血開城について、西郷隆盛と会談。軍艦明け渡しについて、榎本武揚と対立。
坂本龍馬(さかもとりょうま1836~1867) 薩長同盟の仲介人。日本人初のハリストス正教会司祭の沢辺琢磨の親戚。陸奥宗光は海援隊の仲間。
岡田以蔵(おかだいぞう1838~1865) 土佐郷士。坂本龍馬の友人。本間精一郎を暗殺したといわれる。
参考文献
(1)「中新田町史」、昭和39年
(2)「宮崎町史」、昭和48年
(3)一関市芦東山記念館展示
(4)「芦東山『無刑録』の写本五種に関する一考察~元老院刊本との比較から~」、原田信
(5)「鹿門・岡千仞の生涯」、宇野量介、昭和50年
(6)「横尾東作翁伝」、河東田経清、大正6年
(7)生没年は全てウキペディア(https://ja.wikipedia.org)を参照した。



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